満ちあふれる恵み

    「あなたがたもまた、キリストにおいて、真理の言葉、救いをもたらす福音を聞き、そして信じて、約束された聖霊で証印を押されたのです」。 エフェソの信徒への手紙1.3-14

 この箇所では「前もって」という言葉が強調されてます。たとえば5節、「イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです」(その他9、11節)。いったいこの「前もって」によって、神は何を伝えようとしておられるのでしょうか。それは信仰とは、わたしたち人間から、また地上からではなく、上から、神の選びから始まったということです。人が神を信じる前から、洗礼を受けようと志す前から、もっとさかのぼれば母の胎内にあるときから、信仰の選びは始まっていたのです。確かに人は救いを求めて教会に来ます。そのように求めることは大切ですが、ただそうした自分の気持ちの動き以上に、それよりはるか先に、神の選びが始まっていたということは驚くべきことです。信仰は持つという以上に、与えられるといったほうが正確です。人が信仰者として歩むことは、偶然なことではなく、予想外でも唐突でもなく(人間の目にはそのように見えても)、前もって定められた神の選びのもとにあったのです。  

 その「前もって」の選びは、単に時間的に人間の思いより早かったというだけではなく、神の御計画によって選ばれているということでもあります。従って意味のない無目的な生涯は一つとしてなく、わたしたちは神に向き合うことによって、自分の歩みが御計画のもとにあることを確信できるのです。まさに「神がその愛する御子によって与えてくださった輝かしい恵みを、わたしたちがたたえるためです」(6節)とある通りです。人はだれにでも神の恵みが与えられており、その恵みに感謝し、与えてくださった神をほめたたえていくのが目的です。自分の働きや生活を通して。もちろんそのわたしたちの生活には浮き沈みがあります。体調の良いとき、そうでないとき。また心の状態も常に一定ではありません。行き詰まりを覚えたり、途方に暮れたりする場合のほうが多いかもしれません。しかしわたしたちはどのような年代であろうと、どのような境遇にあろうと、神が前もって選び、恵みを与えてくださっているのですから、その輝かしい恵みを覚え、それぞれの仕方で神に感謝することができるのです。そのほめたたえることにおいて、恵みを証しすることにおいて、ふさわしくない人は一人もいません。神による前もっての選びはいつまでも変わることがないからです。人間の気持ちが変わっても(実際変わるのですが)、神の選びと御心はいつまでもわたしたちに対して変わることがありません。

 その選びを確信させるものが聖霊で、信仰を内から支えるもの、わたしたちの内に働く神の力です。それは風や空気のように目には見えません。けれども目には見えないからといって、存在しないわけではありません。風は感じることができますし、気持ちにも影響を与えます。神は御自分の目的をわたしたちにおいて実現するために聖霊を保証として与えてくださいました。どんな人でも、一人ひとりは神にとってかけがいのない存在であることは終始変わりありません。人間の価値はできるかできないといった能力によって決まるのではなく、神の尊い御計画に基づくものであり、そのことを信じて歩むことにおいてあらわされます。わたしたちは自分の内に今も働く聖霊に励まされて歩んでいくのです。(高橋牧師記)