炎のような舌

「そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった」。 使徒言行録2.1-13

 イエスの弟子たちが一つになって集まっているときでした。突然激しい風が吹き、炎のような舌が彼らを覆いました。これこそが聖霊の降臨であり、ペンテコステの出来事でした。風、炎、それらはわたしたちを動かす力です。どんな立派な帆掛け船であっても、それは風がなければ動きません。食物も火があって初めておいしくいただけます。それがペンテコステに降った聖霊なのです。聖霊とはわたしたちの内に、また外から働く神の力でした。

 今、弟子たちは上からの聖霊を受け、その聖霊に押し出されて外に向かって語ることができるようになりました。福音の喜びを人々に伝えよう、人々と共に神の恵みを分かち合おうという積極性を生み出したのです。

 この場所には世界のいろいろな国々から、ユダヤの人々が集まっていました。彼らが驚いたのは、イエスの弟子たちが大胆に語り始めたことですが、それだけではありません。「どうしてわたしたちは、めいめいが生れた故郷の言葉を聞くのだろうか」。これは弟子たちがいきなり外国語を話したということではなく、信仰から出た言葉に驚いたということでしょう。まるで自分の住んでいる国の言葉を聞いているように、心深く鮮明に、しかも感銘をもって聞くことができたのでした。砂が水を吸い込むように深く受け止めることができたのです。それが聖霊による新しい言葉だったからです。  

 この出来事の対極にあるのは、旧約にある「バベルの塔」の物語です(創世記11章)。人々は神のように高くなろうと、天まで届く搭のある町を建てようとしました。それは現代の超高層ビル、今では宇宙まで行けるような科学技術の発達にも通じることです。それによってわたしたちの生活は便利になりました。バベルの塔の物語の結末は、そのようにして有名になろうとした矢先、互いの言葉が通じなくなったという話です。人間が神なしで生きようとする傲慢の結果は、言葉の乱れだったのです。意思、気持ちが通わなくなる。その言葉の乱れ、その言葉の軽さ、それは現代にも当てはまります。インターネットなどを通して得られる情報の多さは、まさに洪水のようであり、真偽を見極めるのが大変困難になっています。SNSで交わされる言葉のどれだけが心に残っているでしょうか。聞く耳をもって聞かれているでしょうか。人間の傲慢と自己主張に忙しい言葉は、人と人を結びつけるより、いやしを与えるより、むしろ対立させる方向へと進みがちです。まさに現代の「バベルの塔」だと思わされます。そうした失われた言葉が、今ここペンテコステにおいて回復したのでした。

 ペンテコステにおいて教会は生まれ、今日に至っています。今のこの季節の風は心地よいものです。それがなぜ心地よいのか、説明したり、説明を求めたりする人はいません。それと同じように聖霊の風は、また聖霊の炎は、わたしたちの心を捉え、わたしたちの内にあって、またわたしたちと共にあって、力を与え外へ押し出してくれるのです。生きる喜びや勇気を与え、どのような困難に直面してもそれを耐え、乗り越える力を聖霊は与えてくれるのです。(高橋牧師記)