父の家

「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか」   ルカ福音書2.41-52

 イエスが12歳のとき、過越祭のため両親と共にエルサレムへ上りました。それが終わって一同は帰路に着きました。ところがイエスは群れの中にはおらず、エルサレムに残っていたのでした。両親はそれに気づかないまま1日分の道のりを行ってしまいました。家族単位ではなく、村あるいは町単位で上ったので、人がいっぱいだったのでしょう。それにしても1日分の道のりを行って、そこで初めて自分たちの息子がいないことに気づいたのですから、今では考えられないのんびりとした時代であったかと思います。
 
 そこでマリアとヨセフは再びエルサレムへ引き返しました。するとイエスが神殿の境内で学者たちの真ん中に座り、彼らの話を聞いたり、逆に学者たちに質問したりしているのを見ました。大人たちはイエスの賢い受け答えに感心していました。母マリアは言いました。「なぜこんなことをしてくれたのですか。御覧なさい。お父さんとわたしも心配して捜していたのです」。するとイエスは答えました。「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか」。

12歳と言えば、今日では小学生から中学生になろうとする年齢です。哲学者の池田晶子さんの著書に「14歳からの哲学」があります。14歳というのは、子どもから大人に入るつなぎ目の時期で、この時期について本人がどこまで自覚していようがいまいが貴重な年代であり、だからこそこの本を書いたと述べています。評論家の佐藤優さんも同じような年のころ一人東欧を旅し、この年代の重要さを語っています。

けれどもここの少年イエスの姿には、単に人間の成長、その心理を表しているというだけではありません。ここに二人の父が出てきます。「お父さんも私も心配して捜していたのです」とマリアが言った「お父さん」、それはヨセフのことです。ここにもう一人の父が出てきます。イエスが答えました。「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか」。それならここで言う「自分の父」とは誰なのでしょうか。それは父なる神です。イエスは神の子でありつつ、徹底して人間の子でもあったのです。それがこの二人の父という、まことに不可解な言い方で御自身を示されたのでした。イエスは神の子としての自らを表しつつ、しかし他方ではその後ナザレに帰り両親に仕えて暮らしました。それは大工の仕事に精を出し、畑仕事もしたのでしょう。そしてそれは後の宣教に大きく役立つことになったのでした。

 神と人とに仕える。神と人とに愛される。そして神と人を愛する。アッシジのフランチェスコが「愛されることより愛することを求めますように」と祈ったように、これはわたしたち一人ひとりにとっても祈りの課題です。この1年、どのように進んでいくのかその道が見えるわけではありません。しかし主はわたしたちの歩む道を必ず備えてくださっています。同じように地上の生涯を人として歩まれた救い主イエス・キリストがわたしたちの一歩一歩を確実に導いてくださることを信じて歩んでいきたいと願います。(高橋牧師記)