狼は小羊と共に宿る

「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで その根からひとつの若枝が育ちの上に主の霊がとどまる。知恵と識別の霊 思慮と勇気の霊 主を知り、畏れ敬う霊」。 イザヤ書11.1-10

 待降節は「アドベント」ともいいます。キリストの到来です。その到来には二つの意味が示されています。一つはいうまでもなくキリストの誕生であるクリスマス。ただもう一つあります。「主よ、来てください」と待ち望む再臨のキリスト、その到来です。

 「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで その根からひとつの若枝が育つ」。エッサイとはダビデの父です。どうしてダビデではなく、父親の名前から始めたのでしょうか。ダビデは旧約時代の偉大な王でした。それゆえ新約時代に入っても、来たるべき救い主はダビデのような人と信じられてきました。そのようにダビデは立派な人ではありましたが、限界もありました。彼はさまざまな罪を犯し、建てられた王国は滅びました。そのためイザヤはもう一度ダビデの前の父親から始めて、新しいダビデ、第二のダビデを指し示したのです。

 新しい王は霊の人でした。「その上に主の霊がとどまる」とある通りです。知恵と知識の霊、思慮と勇気の霊、主を知り、畏れ敬う霊に満たされた人です。知識にすぐれているだけではなく、それを行動につなげることができる。さらに信仰の人でもあります。それが新しいダビデ、すなわちキリストの姿なのです。彼は目に見えるところによって裁きを行わず、耳にするところによって弁護することはありません。そしてこの世界の中に住む弱い人々、貧しい人々にその目は向けられました。飢えている人、病気の人などに代表される小さな人々のかたわらにおられたのです。

 貧しき飼い葉桶でお生まれになった神の独り子イエス・キリストは、同時に終末の完成をもたらす方でもありました。それを「狼は小羊と共に宿り/豹は子山羊と共に伏す」とイザヤは語ります。普通はそのようなことはありません。この一見牧歌的でもあり童話的でもある言葉は、キリストが万物を支配し、この地に、人間社会に平和をもたらすだけでなく、自然界全体に平和の秩序を回復されることを示しています。

 クリスマスにおいて救い主メシアの第一の到来がまもなく実現しようとしています。わたしたちの罪は解き放たれ、さまざまな重荷は主によって取り除かれます。しかし第二の完成者としての到来は、クリスマスにおいて限りなく一つのことではありますが、まだ実現せず、待ち望むという段階でもあります。わたしたちはこの世に人となって現れてくださった主イエス・キリストと共に歩むことによって、すでにこの方により救いは実現したという確信を抱きつつ、まだ途上にあって待ち望んでいるという希望の間の細い道の間を歩んでいくのです。この世界は今も悩みに満ちています。わたしたち一人ひとりの生活も同様です。そこにはいろいろな困難があり、予期せぬ出来事それはコロナ禍であったり、戦争であったり―に生活や命が脅かされています。それにもかかわらず、いつもわたしたち共にいてくださる救い主、かつ勝利者であるイエス・キリストを心から信じ、クリスマスに与えられる恵みと喜びを感謝し、日々歩むことが許されているのです。(高橋牧師記)