生涯のささげもの
「多く集めた者も、余ることはなく、わずかしか集めなかった者も、不足することはなかった」。 コリントの信徒への手紙二 8.1-15

テサロニケやフィリピなどマケドニアの諸教会は、コリント教会に比べればはるかに規模は小さいにもかかわらず、多くの献金を献げていました。経済的には貧しくとも、信仰的には豊かだったのです。それが他者に対する思いやり、献げる業において発揮されたのでした。彼らは苦しみによる激しい試練を受けていたのに、人に惜しまず施すことに富んでいたのです。それを聖書は、「その満ち満ちた喜びと極度の貧しさがあふれ出て」と言い表しています。満ち満ちた喜びがあふれ出るのは分かります。もう一つ「極度の貧しさが」どうしてあふれ出、それが「人に惜しまず施す豊かさ」となったのでしょう。
信仰には確かにこうした面があります。わたしたちはよく自分の生活が安定することと、献げる行為や奉仕とを関係づける傾向があります。今の生活がもう少し落ち着いてから奉仕します。もう少し収入が増えてから献げます。けれどもそれはいつのことを言うのだろうか。おそらくそのような言い方でなされる安定とか、献げるにふさわしい状態というものは、永久に手に入れることができないでしょうし、反対に今ここで、すぐにでもできることです。マケドニアの諸教会は試練の中にあって、しかも極度の貧しさの中にあって、この慈善の業に参加しました。彼らは力に応じて、また力以上に、自分から進んで、他の教会の人々を助けるための慈善の業と奉仕に参加させてほしいと願い出たのでした。それは強制されたものではなく、自主的な活動です。さらにパウロは言います。「また、わたしたちの期待以上に、彼らはまず主に、次いで、神の御心にそってわたしたちにも自分自身を献げた」。他の諸教会やそこに連なる人々への援助、奉仕の機会が訪れたとき、信仰と愛のある人にとってそれは重荷や苦痛ではなく、施しの業となったのでした。
もちろんここでの献げるということは、必ずしも献金といったお金のことだけでなく、献身から来るさまざまな奉仕が含まれています。わたしたちの週報の「献金」の項目に、「感謝と献身のしるし」とある通りです。献げるという献金は、つきつめれば神によって与えられた救い、その恵みに対する応答なのです。こう聖書は語ります。「あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです」(9節)。わたしたちの慈善の業は人間的な熱心さから出発しているのではなく、キリストの救いを源としています。キリストの恵み、それはご自分の豊かさや栄光を捨てて、十字架の死に至るまで貧しくなられた。その貧しさによって、信じる者を豊かにしてくださいました。ここでの豊かさ、貧しさとはもはやお金の多い少ないではなく、それらをはるかに超えた、もっと大きな人間性全体を含んだものです。その豊かな恵みを受けた者は、今度は人が困っているとき、自分の助けや力が必要とされているとき、憐みの心を閉ざすならば、どうして神の恵みの証しができるでしょうか。わたしたちはキリストから恵みを与えられているゆえに、それをさまざまな業としてあらわしていきます。恵みをいたずらに受けるだけであってはなりません。(高橋牧師記)

