百倍に育つ種

    「また、ほかの種は良い土地に落ち、芽生え、育って実を結び、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなった」  マルコによる福音書4.1-9

 イエスはガリラヤ湖のほとりで、種蒔く人のたとえをお話しになりました。そこでは四種類の種の行方が記されています。一つは道端に落ちた種で、たちまち鳥が来て食べてしまう。二つ目の種は石だらけの土の少ない所に落ち、そこは土が少ないのですぐに芽を出したが、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。三つ目は茨の中に落ちた種。すると茨が伸びて覆いふさいでしまったので、実を結びませんでした。四つ目の種は良い土地に落ちたので、豊かに成長し三十倍、六十倍、百倍にもなりました。

 このたとえには、バランスの悪さを感じます。最初の三つの種は、成長せずに終わるか、途中でだめになってしまった種です。最後の四番目だけが唯一成長した種でした。3対1の割合で、実らない種について語られているのです。そこには実際の農夫が経験した種蒔きとそこから得られる収穫の困難さが背景にあったのではないかと思います。さらにはこの種蒔きのたとえの背後にある教会の成長の困難さ、また人間として、信仰者としての成長を妨げるさまざまな問題が示されているのかもしれません。  

 13節以降にはたとえの解釈が述べられています。それによりますと蒔かれた種とは神の御言葉のことで、最初の種に出てくる鳥はサタンのことでした。サタンが蒔かれた御言葉の種を奪い去ってしまう。油が水をはじくように、ほとんど信仰心が育たないケースです。二番目と三番目の種、それはわたしたちの外から襲う困難と、内から出る困難と捉えることができます。二番目のケース、「御言葉を聞くとすぐ喜んで受け入れるが、自分には根がないので、しばらくは続いても、後で御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう」。「艱難や迫害」、それは時代により、また一人ひとりによってさまざまでしょう。人間関係、健康の問題、家庭においてさえも。誰の人生も絶えず順風ということは決してなく、むしろ思い通りになかなかいかない逆風の中を歩んでいくのが現実です。

 信仰の困難は外からだけではありません。わたしたちの内にもその原因はあるからです。「この人たちは御言葉を聞くが、この世の思い煩いや富の誘惑、その他いろいろな欲望が心に入り込み、御言葉を覆いふさいで実らない」(19節)。要するに気が多いということでしょうか。「あれもしたい、これもしたい」と。「あれもこれも」とは滅びの道であると語った神学者の言葉を思い起こします。

 ここでさらに注目しておきたいことは、四番目の「ほかの種」だけが複数形だということです。最初の三つの種はいずれも一粒の種という単数ですが、四番目は二粒以上、それは三十個かも五十粒かもしれません。確かに育たない種はあります。けれどもそれらはわずか一粒ずつの種でしかありません。その他圧倒的に多くの種は豊かに成長していくのです。ほとんどは神の御計画どおり豊かな地に蒔かれて成長していくのです。3対1というアンバランスを超えて余りある、四つ目の種が六十倍、百倍へと成長していく。何か特別ことが求められているわけではありません。御言葉の力を心から信じ、自らを委ねて祈りつつ歩む。そうしたわたしたちの日常の生活をイエスは祝し、恵みと導きを与えてくださるのです。(高橋牧師記)