神に不可能はない
「なぜサラは笑ったのか。なぜ年をとった自分に子供が生まれるはずがないと思ったのだ。主に不可能なことがあろうか。来年の今ごろ、わたしはここに戻ってくる」。 創世記18.1-15

アブラハムは、「信仰の父」として旧約・新約時代に大きな影響を与えています。その中でここには二つの出来事が記されています。一つはアブラハムが旅人をもてなしたこと、もう一つは、神の約束を信じたことです。ある暑い真昼、アブラハムが家の入り口に座っていたとき、3人の旅人がやって来ました。そこでアブラハムはすぐにこの旅人を出迎え、急いでお昼の用意をしました。
ホスピタリティーという言葉があります。ホスピス、ホスピタル(病院)とも関係する言葉で、旅人をもてなす、親切にするという意味です。旅人というのは生活が不安定な状態にある人のことです。またその場限りの関係の人でもあります。わたしたちは互いに知っている関係であれば親切にしようとしますし、その善意がまた何らかのお返しとなって返ることもあります。けれども旅人はそういうことがありません。まさに報いを何ら期待しないで行う善行ということです。わたしも学生の頃、ヒッチハイク旅行をよく行い多くの好意を受けたことがあります。食事を御馳走になったり、家に泊めてもらったこともあります。アブラハムはそのようなもてなしを行ったのです。これがホスピタリティーです。実はアブラハムに現れたこの3人の旅人、この時点では分かりませんでしたが、彼らは神の御使いであり、また神御自身でもありました。そうと分かっていたなら、もっと大々的にもてなしたかもしれません。アブラハムは旅に疲れた3人をそうとは知らず、誰に対してもそうするようにごく自然に迎えたのでした。
食事の後のことです。旅人の一人がアブラハムに言いました。「わたしは来年の今ごろ、必ずここに来ますが、そのころには、あなたの妻サラに男の子が生れているでしょう」。このときアブラハムと妻サラの間には子供がいず、彼らはすでに年をとっていました。サラはこの言葉を家の入り口の所で聞き、ひそかに笑いました。この「ひそかに笑った」とは、どういう笑いでしょうか。嬉しい喜びの笑いではないでしょう。落語を聞いたときの笑いでもありません。そうではなく、不信の笑いではないでしょうか。神の力を人間の貧しい感覚や経験でもってはかっているのです。そこには不信仰があります。
それでもアブラハムの信仰は弱まりませんでした。彼は不信仰に陥って神の約束を疑うようなことはなく、むしろ信仰によって強められ、神を賛美したのでした。神は約束したことを実現させる力をお持ちの方だと、確信していたのです。これは何も子供の誕生のことだけではありません。希望するすべもなかったときに、なおも望みを抱いて信じる。それはどのような人生の場面でも言えるのではないでしょうか。いつまでも残るものは信仰、希望、愛ですが、そのように信ずることと希望は深くつながっているのです。わたしたちの自分の望みが何でもかんでも叶えられるということではなく、神の約束は必ず実現するということです。「わたしは来年の今ごろ、必ずここにまた来ます」との約束の言葉に対し「ひそかに笑う」のではなく、神のわたしたちに対する約束を希望を持って信じることが大切なのです。神に不可能なことは何もないからです。(高橋牧師記)

