神に立ち帰れ

    「ユダの家は、わたしがくだそうと考えているすべての災いを聞いて、それぞれ悪の道から立ち帰るかもしれない。そうすれば、わたしは彼らの罪と咎を赦す」。  エレミヤ書36.1-10

 預言者エレミヤは、ユダの国がまさに滅びようとしていたときに預言活動をしていました。彼がそこで語る言葉は、ある人々にとっては耳の痛いものでした。上記の聖書箇所では、エレミヤが弟子のバルクに神の言葉を口述筆記させるところから始まっています。このときエレミヤを取り巻く環境は、神殿に入ることを禁じられるという厳しいものでした。彼が神殿に入ることを禁じられていたとは、彼が語る神の言葉が禁じられていたということでもあります。神殿とは神の言葉が語られるに最もふさわしい場所です。そこで語ることを禁じられていた。それなら誰が禁じていたのか。それは祭司など支配者たちが禁じていたということです。エレミヤが語る言葉を、彼らは聞きたくなかったからでした。  

 エレミヤは言いました。「ユダの家は、わたしがくだそうと考えているすべての災いを聞いて、それぞれ悪の道から立ち帰るかもしれない。そうすれば、わたしは彼らの罪と咎を赦す」。また7節、「この民に向かって告げられた主の怒りと憤りが大きいことを知って、人々が主に憐みを乞い、それぞれ悪の道から立ち帰るかもしれない」。この巻物に書き記された神の言葉を聞いた支配者たち、役人の幾人かは、感動をもって受け止めたり、悔い改めを示されたりもしました。そのように心に深く染み入るものを預言者の言葉に感じたのです。けれども他方では、エレミヤが神殿に入ることを禁じられていたことから示されるように、それを快く思わない人々、むしろ敵対する人々がいました。その代表がユダの王ヨヤキムでした。彼は神の言葉が記された巻物を暖炉の火の中に入れ燃やしてしまいました。さらにはエレミヤに逮捕状を出したために、彼は身を隠さなければなりませんでした。

 新約聖書のテモテ書の中に、「聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です」(テモテ二3.16)とあります。また「日本基督教団信仰告白」の中にも、聖書は神につき、救いについて、まったき知識を我らに与える神の言葉にして、信仰と生活との誤りのない規範とあります。そのように神の言葉には人々を慰め、励まし、救うという面がある一方、人々をとがめ、戒めるという面もあります。いわゆる聞きたくない、耳の痛い面です。そのとき人は自分の思いが、あるいは自分自身が否定されたと感じ、かえって好き勝手な自分中心の方向へと態度を変えていきます。まさにヘブライ書が語るとおり、「両刃の剣」という両面があるのです(ヘブライ書4.12)。

 アドベント第2週に入りました。何の準備もせずにいきなりクリスマスを迎え、ただ楽しんで終わりというのではなく、心の備えをして主イエス・キリストをお迎えしたいと思います。その心の備えとは、神の言葉が両刃の剣のごとく二面性があるように、一方では自分の荒れた心、自分勝手な方向へと流れやすい心を悔い改めることによって、主イエスを心から信じてお迎えするにふさわしい状態にするということです。そのときにもう一面である、すなわちわたしたちの心に、他のものでは、また物やお金では決して得ることのできない深い慰めと平安を得ることができるのではないでしょうか。(高橋牧師記)