神の小羊
「その翌日、ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」。
ヨハネによる福音書1.29-34

イエスが洗礼をお受けになったとき、聖霊が鳩のようにイエスの上に降りました。それはまさに栄光の姿でした。ただその栄光とは一般に理解される光り輝くものだけではありません。それは同時に苦難の十字架の時でもあるからです。栄光と苦難は表裏の関係でもあり、イエスの受洗の中にも、すでに苦難の影が宿っていたのでした。それが「神の小羊」という言葉で言い表されています。
バプテスマのヨハネはイエスが自分の方へ来られるのを見て、「見よ、神の小羊」と言いました。「神の小羊」とはめずらしい表現です。ヨハネはイエスを見たとき、なぜ「神の小羊」と言ったのでしょうか。彼はイエスをどのように理解し、どのような方として信じていたのでしょう。
ご存じのように羊は弱く迷いやすい動物です。だから羊には必ず羊飼いが必要です。イエスもそうした迷える羊を牧する羊飼いならばまだ分かるのですが、バプテスマのヨハネは羊飼いでなく、イエスを羊と呼んだのです。
旧約時代には人間の罪を贖うものとして羊など動物が犠牲としてささげられました。出エジプトにおける過越の小羊などが思い浮かびます。そうした動物の血による罪の贖いと救いが、さらに深められていくなかで、今、主イエスによる十字架の血による救いが指し示されているのです。バプテスマのヨハネがイエスを指して、「世の罪を取り除く神の小羊」と言ったとき、このような働き、つまり贖いの死を見たのでしょう。
それは預言者イザヤも次のように述べています。「わたしたちは羊の群れ 道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪のすべて 主は彼に負わせられた。苦役を課せられて、かがみ込み 彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる小羊のように 毛を切る者の前に物を言わない羊のように 彼は口を開かなかった」(53.6-7)。イザヤが語るわたしたちの罪を代わって負わせられたこの「彼」とは、イエスのこれから歩もうとされる姿だったのです。
イエスの洗礼は、聖霊が鳩のように降る栄光のときでした。けれどもその栄光はこの世的な意味での栄光ではなく、苦難を受けることによって得られる栄光です。その苦難によってわたしたちに命を与える栄光でもあったのです。イエスの誕生であるクリスマスにすでに苦難の死の影が暗示されていたように、イエスの受洗においても同様です。最近の讃美歌では、そうした視点が取り入れられています。たとえば21-273の2、3節、「馬小屋の御子のゆくては十字架」、「まぶねのかたえに墓は備えられ」などは、そうした信仰理解の中で歌われる讃美歌だといえましょう。
罪と何のかかわりもない方、すなわちイエスを神はわたしたちのために罪となさいました。この世・わたしたちの罪の責任を問うことなく、イエスが代わってその責任を担われたのです。それが神の小羊としてのイエスです。わたしたちはこの2024年を歩むにあたり、こんなわたしのために命を献げてくださった神の子の尊い犠牲のもとに生かされていることを覚え、どんな悩みのときであってもここから離れないよう、信仰によって歩んでいきたいと願います。(高橋牧師記)

