神の恵みに包まれる

「幼子はたくましく育ち、知恵に満ち、神の恵みに包まれていた」。   ルカによる福音書2.22-40

 イエスの誕生後、両親は都エルサレムへ上り、旧約の規定に従って「山鳩一つがいか、家鳩の雛二羽をいけにえとして献げ」ました。律法で家が貧しくて小羊に手が届かない場合には、鳩の献げ物でもよいとあります(レビ記12.8)。ここからイエスの家庭の経済状態がどのようなものであったかが分かります。もちろんそうした献げ物であっても何ら問題はありませんでした。 

 このとき神殿には2人の人がいました。1人はシメオンです。「この人は正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼の上にとどまっていた。そして、主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない、とのお告げを聖霊から受けていた」。シメオンは今神殿に入ってきた幼子イエスを見て、自らの腕に抱き神をたたえました。

 まさにその同じとき、もう1人の人物もイエスに救いを見ていました。それがアンナという女預言者です。「アシェル族のファヌエルの娘で、アンナという女預言者がいた。非常に年をとっていて、若いとき嫁いでから7年間夫と共に暮らしたが、夫に死に別れ、84歳になっていた。彼女は神殿を離れず、断食したり祈ったりして、夜も昼も神に仕えていた」。  

 この2人に共通するものは何でしょう。その一つは2人が高齢者であったことです。アンナは84歳でした。シメオンの年齢は記されていませんが、高齢であることは十分察することができます。今わたしたちの国は少子高齢化社会といったような言い方で、高齢化する社会がさまざまな角度から取り上げられています。しかもそれはほぼマイナス面の問題として論じられています。確かに高齢化とは肉体的、精神的、知的に衰えていくわけですし、そこから既にいろいろな問題が起きているのは事実です。けれども高齢とは果たしてマイナス面の問題だけなのでしょうか。聖書の視点に立つとき、信仰者として歩むとき、わたしたちは別の面をここから知らされます。よく老人は過去を語ると言います。しかしここでシメオンは未来を語りました。彼は世界の救いを待ち望んでいましたし、それを指し示す人でした。「待ち望む」、これは過去ではなく、明日を生きる人の姿勢です。またアンナ、彼女もそうでした。彼女も救いを待ち望む人々にイエスを証しするのでした(38節)。過去の人でなく、明日を待ち望んでいたのです。祈ること、証しをすること、そうした中で自らの精神が明日に開かれていく、これは高齢者であっても、いや高齢者であるゆえにそこに集中できることではないでしょうか。

 その後、イエス親子は自分たちの町であるナザレに帰りました。次に出てくるのは、イエスが12歳になってからのエピソードです。今日箇所の最後は次のような言葉で締めくくられています。「幼子はたくましく育ち、知恵に満ち、神の恵みに包まれていた」。それは幼子イエスの上に注がれていただけでなく、わたしたちすべての者にも注がれている神の恵みでもあります。これから始まる新しい1年、わたしたち一人ひとりもこの神の恵みに包まれていることを覚え、一歩一歩進んでいきたいと祈ります。(高橋牧師記)