神はあなたと共に
「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」。 マタイによる福音書28.16-20

ここマタイによる福音書の一番最後は、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」というイエスの言葉で閉じられています。それはまたこの言葉をもって、次の新しい時代が開かれていく初めであることを示唆してもいます。
マタイ福音書全体(28章)の中、最初はイエスの誕生であるクリスマスでした。それはインマヌエル、すなわち「神は我々と共におられる」(1.23)というメッセージです。そして今この福音書は、やはり同じように「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」という言葉で閉じられています。「神がわたしたちと共におられる」とはどういうことなのか、それをこの福音書はイエスの生涯を通して具体的にお示しになりました。病める者をいやし、孤独な人と共に歩まれ、人々から排斥されている悲しみの人には慰めと生きる力を与えられたようにです。最後には死の墓を超えて、いつも主イエスが共にいてくださることを約束してくださったのです。
その復活されたイエスが、今ガリラヤにて弟子たちに派遣の命令を下されました。そして最後に約束の言葉として、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがと共にいる」と語られたのです。共におられる神、イエスさまはいつも一緒にいてくださる。それなら反対の「共にいない」とはどういう状態でしょうか。自分のそばには誰もいない。前にわたしが仕えていた下松教会には幼稚園がありました。毎年4月、5月あたりには園児がお母さんと分かれるのをいやがり、門のところに張り付いて動こうとしない光景が見られました。それは園児だけのことではなく、小学1年生とか親元を初めて離れて学生生活を送る若者や会社勤めをする場合も同じでしょう。園児のように泣くことはありませんが、新しい環境で知り合いが誰もいない場所での生活には、大変な緊張と不安や寂しさを感じるものです。若い人々だけではありません。人は年を重ねると、それまで共に歩いていた家族や夫婦のどちらかが病み、あるいは死によって分かたれます。どんなに仲が良くても、同時に入院することはほとんどありません。
わたしたち信仰者自身は「キリストの手紙」とも言われています。使徒パウロは言いました。「あなたがたは、キリストがわたしたちを用いてお書きになった手紙として公にされています。墨ではなく生ける神の霊によって、石の板ではなく人の心の板に、書きつけられた手紙です」(2コリント3.3)。わたしたち自身がキリストによって書かれた手紙として公にされている。だから出ていきなさいとの命令を受けたのです。
証し、伝道、それが教会に連なる者の使命です。いつも共におられる神のもと歩んでいくことによってです。「いつも」、それは「すべての日にわたり」あるいは「いかなる日にも」ということでしょう。天と地の一切の権能を授かった復活の主イエスは、わたしたちの光が当たる時だけでなく、「死の陰の谷を歩む」ような暗い日々であっても決して離れることはありません。そうした落ち込む日々であっても、別の仕方で支えられておられるからです。世の終わりまでいつも共におられる主とは、そのような意味なのです。(高橋牧師記)

