耳が痛い預言
「もう一人、主の御旨を尋ねることのできる者がいます。しかし、彼はわたしに幸運を預言することがなく、災いばかり預言する
ので、わたしは彼を憎んでいます」。 列王記上22.6-17

南王国の王ヨシャファトが北王国のアハブ王を訪ねたときのことです。アハブは長年の宿敵アラムと戦おうとしているので、ヨシャファトに一緒に戦ってもらえないだろうかと尋ねました。ヨシャファトはその提案に同意するのですが、同時に主の言葉をまず求めました。そこでアハブは約400人の預言者を召集して、アラム軍との戦いに行くべきか、それとも控えるべきかを問いました。すると全員が「攻め上ってください。主は、王の手にこれをお渡しになります」と答えるのでした。
最近、忖度という言葉を多く耳にしますが、この光景もそんな一つに見えます。400人の預言者が全員王の希望に沿うような言葉を預言として語っているのです。さすがこれにはヨシャファトもおかしいと感じたのでしょう。「ここには、このほかに我々が尋ねることのできる主の預言者はいないのですか」と問いました。それに対するアハブの答えが上記の言葉です。そこでアハブ王はヨシャファトの忠告を受け、ミカヤを呼びにやりました。
預言者ミカヤは正装した王や高官たちの前に立ちました。彼は王など権力者に忖度することなく、ただ主の御言葉のみを語りました。「主は生きておられる。主がわたしに言われる事をわたしは告げる」と。
このときのミカヤ、それは後の宗教改革者ルターを思い起こします。ウォルムスの帝国議会に召喚されたときのルターも、やはり同様身分の高い人々を前に立たされました。そこでルターは自分の考えを撤回するよう求められる、いわゆる宗教裁判にかけられたのです。それでもルターは言いました。「私は自分の考えを取り消すことはできませんし、取り消すつもりもありません。良心に反したことをするのは、確実なことでも、得策なことでもないからです。神よ、私を助けたまえ、アーメン」。ルターはこのとき、このミカヤに励まされたのかもしれません。
アハブはミカヤを指して言いました。「彼はわたしに幸運を預言することなく、災いばかり預言するので、わたしは彼を憎んでいます」。この場合、王の言う幸運とは何でしょうか。その幸運とは、どのような状態を言うのでしょうか。アハブ王にとってのそれは自分の思い通りに事が進むことであり、自分の欲求が満たされることでした。反対に自分の気持ちに沿わないことを語る者、そうした耳が痛い預言を嫌いました。それを語る者がたった一人の預言者がミカヤだったのです。彼の使命は王に忖度することではなく、主の御心が何であるかを告げることでした。それゆえに彼は獄につながれましたが、その戦争によって王は戦死しました。アハブ王にとって預言者たちが語った戦うべきとの幸運な預言は、反対に災いの預言となったのでした。旧約続編に「不幸な目に遭って、幸せを見つける人もいれば、思わぬ幸運に巡り合って、損をする人もいる」とあります。「主は生きておられる。主がわたしに言われる事をわたしは告げる」。主の言葉、それは聖書の言葉です。自分の思いやこの世界のあらゆる力を超えて、主の言葉だけが堅く立つことをわたしたちも今一度心に刻んでおきたいと思います。(高橋牧師記)

