聖書を朗読するイエス

「主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである」。 
    ルカによる福音書4.16-30

 イエスはいつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読されました。聖書はイザヤ書でした。読み終えると、「会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた」と、その様子が記されています。そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と語り、それについてさらに話し始められました。人々はその口から出る恵み深い言葉に驚きました。

 ところがその恵み深い言葉から来る驚きは、違った方向へと向かいました。彼らは言います。「この人はヨセフの子ではないか」。この言葉は何を意味しているのでしょうか。他の福音書をあわせて読んでみますと、ヨセフが大工であったことから、その息子がいったいこのような知恵をどこから得たのだろうかと不思議に思ったとあります。聖書の説き明かしの素晴らしさに驚きつつ、他方ではヨセフの家族は昔からよく知っているという人間的な見方や、それを語るイエスへの偏見からつまずいたのでしょう。彼らにとってはイエスの肩書が律法学者とでもなっていたら、そうした複雑な驚きはなかったかもしれません。それは今日でも同じでしょう。そこで何が語られたかではなく、どのような肩書きで語られたに引き込まれやすい傾向にあるからです。  

 イエスが朗読された聖書の箇所は上記に記したところでした。イギリス・ウェストミンスター寺院の地下室に、英国国教会主教の墓があり、そこには次のような碑文が刻まれています。「何の束縛もない若い頃、想像は果てしなく広がり、私は世界を変えることを夢見ていた。ところが年を重ね賢くなり、世界は変わらないことに気づいた。そこで目指すものをもう少し近いものにして、自分の国から始めることにした。だが自分の国も変わらなかった。老年期に入り、私の願いは悲痛な思いに変わった。自分の国もだめなら、少なくとも最も近くにいる家族を変えることにした。だが、悲しいことに、これすらもままならなかった。今、私は死の床についている。なんと、今になって初めてわかったのだ。変えなければいけないのは、自分自身だったのだと。自分が変われば家族も変わっただろう。そして家族に励まされ支えられることで、国をよくすることもできただろうし、やがては世界を変えることすらできたかもしれないのだ」。

 この碑文にある主教は、自分自身に捕らわれていたのでした。そしてその自分自身から解放されたのでした。「主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ」られたのは、このことでもあったのです。そしてそれが今イエスにあって実現したのでした。わたしたちはイエスにおいて、これまで見えなかったものが見えるようになり、反対にそれまで見ていたものが見えなくなる。これまで自分にとって魅力的であったものがつまらなくなり、それまでかすんでしか見えなかったものが、大きく力をもつようになったです。それが今ここでイエスによるみ言葉を耳にしたときに実現したのです。(高橋牧師記)