若者は幻、老人は夢を

「すると、あなたたちの息子と娘は預言し、若者は幻を見、老人は夢を見る」。   使徒言行録2.14-21

 ペトロは言いました。「神は言われる。終わりの時に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し、若者は幻を見、老人は夢を見る。わたしの僕やはしためにも、そのときには、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する」。

 イスラエルの歴史を見ますと、神の霊は誰にでも与えられると考えられていたわけではありませんでした。それは特に神に選ばれた一部の人々、すなわち預言者や祭司といった人々にしか与えられないと受け取られていたのです。それ以外の名もない、また肩書きのない人々が神の霊によって語ったならば、たとえその語る内容が正しかったとしても、悪霊に取り付かれているといった汚名が着せられることがしばしばありました。イエスもその一人でした。確かに専門職の肩書きどおり、中身もそれに相当しているならば問題はないでしょう。ところがそうでない場合もあります。反対に地位や肩書きのない人々が神から直接聖霊を受けて預言することがあり、しかもそちらの方がより神のみ心に適っていることがありました。  

 ペンテコステにおいて、神の霊は一部の特定の人々だけにではなく、すべての人々に注がれました。その代表として若者、女性、老人、僕が語られています。預言、幻、夢はほぼ同じ意味だと理解してよいと思います。これは当時の背景を知れば、画期的な出来事でありました。神の言葉を語ることは、また信仰の証しをすることは誰でもできるということです。壮年期の者だけでなく、年の若い者であっても老人であっても、そこには何の分け隔てもない。男だけでなく、女であっても何ら問題がない。古代身分制の強い社会にもかかわらず、僕にも同じように聖霊が降り、夢や幻を見、預言をすることができるのというものです。

 学問や身分の違いを超えて神の霊が臨む。それは性別の違いにもよりません。昨今、社会全体では女性の活躍が叫ばれています。そこでクオーター制などを設けて、女性を一定の割合で登用しようとの試みもなされています。それは教会においても同じことが言えます。以前と比べれば女性の牧師がわたしたちの教団ではずいぶん多くなりました。このことは決してすべての教派がしていることではありません。そういう意味では開かれていると言えます。ところが実際赴任先の教会を探す段階になりますと、女性教職の選択肢が狭められていく現実があります。人間としての賜物、能力でなく、女性という性がはっきりと、また密かに問題とされるからです。しかしこれは、すべての人に聖霊が賦与されたペンテコステの出来事に反するのではないでしょうか。

 「終わりの時に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し、若者は幻を見、老人は夢を見る。わたしの僕やはしためにも、そのときには、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する」。この約束の言葉はペンテコステにおいて実現し、ペトロの大胆な証しにそれが表されました。そして今この神の霊はわたしたちにも等しく注がれています。この神の豊かな霊が注がれている者として、また導かれている者としてわたしたちは歩んでいくのです。(高橋牧師記)