苦境から導き出す主

「わたしはエジプトの重労働の下からあなたたちを導き出し、奴隷の身分から救い出す」 出エジプト記6.2-13

 モーセは同胞イスラエルの民を救い出す使命を神から与えられました。けれどもその働きには大きな困難を伴いました。そこにはエジプトの支配者ファラオとの対決があり、自分の民を整えるのも並大抵のことではなかったからです。
 
 そもそも初めからモーセはこの働きに自信が持てませんでした。何よりも口下手であったことが重荷でした。召命を受けたときモーセは言いました。「ああ、主よ。わたしはもともと弁が立つ方ではありません。あなたが僕にお言葉をかけてくださった今でもやはりそうです。全くわたしは口が重く、舌の重い者なのです」(4.10)。こういう心理は、人の前に立つ者ならば誰にでも共通するかもしれません。それはパウロも似ています。「手紙は重々しく力強いが、実際に会ってみると弱々しい人で、話もつまらない」と彼は言われていたからです(2コリント10.10)。しかし重要なのは口達者かどうかではなく使命感です。そこで神ご自身がモーセの口と共にあって、語るべきことを知らせようと言われました。

他方、イスラエルの民はあまりに激しい労働のため、モーセの言葉に聞き従って新たな歩みを始めようとする意欲が失われていました。「モーセは、そのとおりイスラエルの人々に語ったが、彼らは厳しい重労働のため意欲を失って、モーセの言うことを聞こうとはしなかった」とある通りです。「聞こうとしなかった」というより、「聞く力も失われていた」といった面もあったと思います。こういうことはわたしたちにもあるのではないでしょうか。自分の生活がうまくいっていないとき。それは仕事ことの場合があるでしょう。健康のこと、家庭におけるさまざまな問題であるかもしれません。そうした心配事を抱えていると、そして疲れてくると、とても信仰のことなど考えられなく、教会に来ることすらできなくなってしまう状態に陥ります。モーセはそのような疲れた人々を整えなくてはなりませんでした。

 この使命は今日の教会にも当てはまります。教会は初代教会・使徒の時代以来、外からの迫害や世俗の波を受けながら、群れを守り育ててきました。それはイエスがまことの羊飼いであるように、羊を守りつつ、この囲いの外にいる羊をも導こうとされたのと同じです。それらを可能にするのは、人間の力や資質ではなく、ただ神の導きによるものです。「わたしはエジプトの重労働の下からあなたたちを導き出し、奴隷の身分から救い出す」と言われたように、そしてそのように働かれる主の力を信頼し、自らをゆだねていくことです。だから使徒パウロはこう言うのでした。「わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない」(二コリント4.8-9)。確かに現実に四方から苦しめられることはあります。途方に暮れることもある。それにもかかわらず、わたしたちは決して行き詰まらないし、失望もしない。それはイエスの十字架の死と復活の命が、わたしたちを深いところで支えてくださっているからです。だからわたしたちはいかなる苦境にあっても、生きる希望や意欲を失うことはありません。(高橋牧師記)