荒れ野の誘惑
「イエスは四十日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた。その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた」。 マルコによる福音書1.12-13

イエスは洗礼を受けて水から上がると、霊が鳩のように降り、大いなる祝福が彼に与えられました。それが直前の出来事でした。そこを光とするならば、それに続くこの箇所は闇の部分にあたります。祝福にはいつも試練が伴っていくといえるかもしれません。その闇の部分、冒頭にこうあります。「それから、霊はイエスを荒れ野に送り出した」。水から上がるとすぐ、天が裂けて霊が鳩のようにイエスに降ったのですが、その同じ神の霊が今度は荒れ野へと送り出すのです。「イエス40日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられ」ました。
荒れ野とは具体的な場所を指すだけでなく、比喩的にもわたしたちはどういう意味か知っています。それは不毛の地、何かを生み出すよりか、消耗させる場所です。歌謡曲に「東京砂漠」という歌詞があります。あのきらびやかなネオンの下には、孤独があり、だまし合いがある。まさに荒れ野のような殺伐とした世界をそう呼んでいます。そこは命を脅かす場所、脅かすだけでなく喪失さえもたらす危険な場所なのです。
けれども荒れ野はそのような危険な場所であるだけでなく、もう一つ神に近い豊かな場所でもあります。モーセは荒れ野の燃える柴において神と出会いました。「十戒」を授けられたのも、都市など華やかな場所ではなく荒涼としたシナイの荒れ野でした。エリヤが自殺するまでに追い詰められたとき、そこで神の静かな声を聞き新たな力を得たのも荒れ野でした(列王記上19章)。そのように荒れ野とは信仰を立て直す場所、原点に戻る場所、理想の場所でもありました。それは現代のわたしたちにも当てはまります。人間は荒れ野のような苦しい場面に出会うと、変な言い方かもしれませんが真面目になるものです。真剣になる。うまく順調に行っている時には、のほほんと構えていたり、有頂天になったりするものですが、病気や何か苦しいことに直面すると真剣になり、物事をよく考えるようになります。
その荒れ野にて、「その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた」とその40日の様子が述べられています。サタンと野獣たちが荒れ野にいたが、しかし同時に天使たちも仕えていたのです。荒れ野、そこは信仰、命が脅かされ、揺れていきやすい厳しい場所です。わたしたち一人ひとりにも、そのような荒れ野がいろいろとあります。けれどもまたそこは信仰の原点に立ち返ることのできる場所、それゆえに神に出会うところでもあります。しかもそこで試練を受けられたイエスには、天使たちが仕えていました。決して孤独ではなかったのです。不安や孤独や思い煩いが一方にありつつも、他方には祝福と希望があります。さらに言うならば、荒れ野という厳しい場所を通して、またその只中でキリストの恵みに出会うときでもあるのです。使徒パウロが次のように励ましています。「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えてくださいます」(コリント一10.13)。主イエス・キリストを見上げつつ、わたしたちも同じように歩んでいきたいと思います。(高橋牧師記)

