行き先も知らず

    主はアブラムに言われた。「あなたは生まれ故郷 父の家を離れてわたしが示す地に行きなさい」。  創世記12.1-9

 アブラハム(この時点ではアブラム)は、初めから終わりまで徹底して旅の人でした。神の言葉が彼に臨みます。「あなたは生まれ故郷 父の家を離れて わたしが示す地に行きなさい」。彼はそれまで馴れ親しんできた自分の国、自分の親族、自分の家族からさえも別れを告げ、神が示される地に旅立つことになります。アブラハムがどのような経路をたどったか、あるいはどれだけ長い距離を旅したかは正確には分かりませんが、今のイラクあたりからパレスチナ、さらにはエジプトなどを旅しています。まことにすごい距離だと思わされます。このとてつもない長い旅には、当然多くの苦しみを伴ったにちがいありません。と同時アブラハムの歩んだ旅は、距離の長さやそれに伴う心身の苦しさだけでなく、心の旅、信仰の旅路でもあったという側面が分かちがたく結びついていることも忘れてはなりません。

 自分の国、自分の親族、さらには自分の父の家を離れる。そして神が示す地に向かって歩み始める。これは信仰の歩みをなそうとするわたしたちが求められる決断でもあります。神のみ言葉に従って、また信頼して歩み出そうとすることです。今の場所がどれだけ居心地がよくても、長年自分が温めてきた場所からなかなか離れがたくあったとしても、信仰をもってそれと決別して、神が示された新しい地へ歩み始めようとする。信仰の道を歩むということは、それまでの何かと決別することを意味し、何かと分かれることなしに信仰への道を歩み始めることはできないということです。   

 讃美歌288番は「讃美歌21」では「やさしき道しるべの」というタイトルがついています。わたしはこの讃美歌の中で特に2節が好きです。こういう詩です。「ゆくすえとおく見るをねがわじ、主よ、わがよわき足をまもりて、ひとあし、またひとあし、みちをばしめしたまえ」。文語体なので少し分かりずらいかもしれませんが、言おうとしていることは次のようなことです。「主よ、そんなに遠くまで照らしてくださらなくてけっこうです。ほんの一歩手前だけで十分です」。

 確かに神はわたしたちの行き先をそれほど遠く、あたかもサーチライトで照らすようには示してくださらないかもしれません。むしろローソクや懐中電灯で照らすように、ほんの一歩手前だけを照らされながら歩いているに過ぎない。けれどもそれで十分なのではないでしょうか。一日一日、「ひとあし、またひとあし、みちをばしめしたまえ」とあるように、ひとあしひとあし、そうした積み重ねの中で信仰の旅路は継続していくのです。

 アブラハムが旅立ったとき、年齢は75歳でした。つまり旅立ちはいつでもできるものであり、決して遅すぎるというものではありません。これまでの自分の何かと別れを告げる。自分の罪、古い自分、それまでの習慣、それらとの別れです。そして神の示される方向へと歩み始めていきます。また主の道に従おうとするならば、それまでの自分の何かと決別する。それはわたしたちも絶えず新しい環境に向かって進まなければならないことでもあります。確かにそこには不安や恐れがつきまといます。けれどもそこにこそ新しい命の始まりがあります。わたしたちの信仰の歩みとは、そうした繰り返しではないでしょうか。一歩一歩、神に道を照らされながらです。(高橋牧師記)