行き先も知らずに

 主はアブラムに言われた。「あなたは生まれ故郷 父の家を離れてわたしが示す地に行きなさい」。   創世記12.1-9

 アブラハムの生涯を辿ってみますと、彼は初めから終わりまで徹底して旅の人でした。神の言葉が彼に臨みます。「あなたは生まれ故郷 父の家を離れて わたしが示す地に行きなさい」。それまで馴れ親しんできた自分の国、自分の親族、自分の家族からさえも別れを告げ、神が示される地に旅立つことになります。アブラハムが具体的にどれだけ長い距離を旅したか正確には分かりませんが、それは同時に心の旅、信仰の旅路でもあったという側面が分かちがたく結びついていることも忘れてはなりません。

 自分の国、自分の親族、さらには自分の父の家を離れる。そして神が示す地に向かって歩み始める。これは信仰の歩みをなしているわたしたちが求められる決断でもあります。旅立ちには今いる場所から離れるということ、もう一つは神が示される方向に一歩踏み出すこと、この二つの運動を伴います。今の場所がどれだけ居心地がよくても、長年自分が温めてきた場所からなかなか離れがたくあったとしても、信仰をもってそこから決別して、神のみ言葉に従って、また信頼して歩み出そうとする。それをアブラハムから教えられます。そのように何かと分かれることなしに信仰への道を歩み始めることはできないということです。  

 讃美歌288番は「やさしき道しるべの」(讃美歌21の460)という題で、わたしはこの中の2節が特に好きです。こういう歌詞です。「ゆくすえとおく見るを ねがわじ、主よ、わがよわき足を まもりて、ひとあし、またひとあし、みちをばしめしたまえ」。文語体なので若い人には分かりずらいかもしれませんが、言おうとしていることはこのようなことです。「主よ、そんなに遠くまで照らしてくださらなくてけっこうです。ほんの一歩手前を照らしてくださるだけで十分です」。

 確かに神はわたしたちの行き先をそれほど遠くまでは示してくださらないかもしれません。むしろ懐中電灯で足元を照らすように、ほんの一歩手前だけを照らされながら歩いているに過ぎないかもしれない。「ゆくすえとおく見るをねがわじ」というように、来年、あるいは2年後と、そんなに遠くまで行き先を示してくださらなくてけっこうです。けれどもそれで十分ではないでしょうか。そうではなく「ひとあし、またひとあし、みちをばしめしたまえ」とあるように、今日、明日、長くても1週間先で十分ですという思いが込められています。そうした積み重ねの中で、信仰の旅路は継続していくのです。

 アブラハムが旅立ったとき、年齢は75歳でした。旅立ちはいつでもできるものであり、決して遅すぎるというものでもありません。これまでの自分の何かと別れを告げる。自分の罪、かたくなな古い自分との別れです。そして神の示される方向へと歩み始めていきます。思想家のニーチェが「脱皮できない蛇は滅びる」と語っています。蛇は脱皮を繰り返して成長していくように、人間も絶えず古くなっていく殻を脱ぎ捨てていかなくては成長がないということです。わたしたちの信仰の歩みとは、そうした繰り返しではないでしょうか。そこにこそ新しい命の始まりがあるのです。一歩一歩、主に照らされながら。(高橋牧師記)