試練に遭う

そこで、悪魔はイエスに言った。「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ。」イエスは、「『人はパンだけで生きるものではない』と書いてある」とお答えになった。   ルカによる福音書4.1-13

 荒れ野でイエスが40日間、何も食べず空腹を覚えられた時でした。悪魔が声をかけました。「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ」。旧約時代の人々は喉が渇けば不平を言い、食べ物がなくなると不満を言いました。今の時代も同じです。しかしイエスは神の子です。パンを与えることができる方です。それでも悪魔の誘いに乗りませんでした。ここではもっと本質的なもの、すなわち朽ちる食べ物でなく、永遠の命に至るものを指し示されたのでした。それが「人はパンだけで生きるものではない」との言葉です。わたしたち人間にとって本質的に何が必要なのか、何がそうでないかを教えておられます。  

 次に悪魔はイエスに世界のすべてを見せ、その国々の権力と繁栄を与えようと言いました。「もしわたしを拝むなら」が条件です。この世の権力と繁栄、それは何と魅力的でしょう。お金の魅力であり、社会的な地位です。第一の試みが飢えや貧しさならば、ここでの誘惑は富です。このように貧しさの中にも、豊かさの中にも落とし穴が潜んでいます。この地上的な栄光を追い求めたために、自分の信仰を見失った人がどれだけいることでしょうか。それまで自分が大切にしてきたもの(自分自身さえ)を悪魔に売り渡す。代わりに富を手にすることによって、悪魔に仕えていくのです。イエスは神のみを礼拝しなさいと言われました。それは人間にとってもっとも重要な軸となるものです。もし神から離れてしまうなら、そのことによって隣人との関係も崩れてしまい、それだけでなく、まことの自分自身からも離れてしまいます。

 最後にも悪魔は聖書を引用してイエスを陥れようとします。聖書でさえ悪魔の道具となるのです。宗教は人間を根本から支えるものですが、一歩間違えば大変危険なものとなり狂信につながる面をもっています。それは国の内外のどの宗教にも共通しています。キリスト教も例外ではありません。イエス・キリストは絶対ですが、キリスト者は絶対ではありません。信仰者も聖書の言葉を語ることにおいて、しばしば自分も絶対だと思う誘惑に陥ることがあります。ところが聖書を引用し、神の名によって語りつつ、実は自己主張に過ぎないことがいかに多いことか。あなたの神である主を試してはなりません。

 このようにイエスは悪魔からの誘惑をすべて拒否しました。そしてひたすら神に従いとおしたのです。他方でわたしたち人間にはそうした信仰の従順さがありません。神を差し置いて自己主張があり自己正当化があり、自分が主となっているからです。その結果、自分を十分に生きることができなくなっているのが現実です。イエスはわたしたちのために、わたしたちに代って、様々な試練に耐え、神に従いとおされました。そのイエス・キリストを信じる信仰によって、今わたしたちも誘惑に打ち勝つ者として歩むことが許されています。「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」(ヨハネ16.33)、と今日も主イエスはわたしたちを励ましてくださっています。(高橋牧師記)