輝く雲の中
「すると、「これはわたしの子、選ばれた者、これに聞け」という声が雲の中から聞こえた。その声がしたとき、そこにはイエスだけがおられた。 ルカによる福音書9.28-36

イエスは祈るためにペトロ、ヨハネ、ヤコブを連れて山へ登られました。そのとき「イエスの顔の様子が変わり、服は真っ白に輝きました」。変貌のイエスです。見るとモーセとエリヤがイエスと語り合っていました。その2人がイエスを真ん中にして会うという光景は、イエスが旧約の中心である律法と預言者に繋がっているということであり、さらにはそれを超えて完成されるというメッセージが示されています。
その2人が栄光に包まれて現れ、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していました(31節)。それはやがて直面する十字架の死を意味しています。
最期、現在もそうですが、ここ近年死にまつわる話題が何かと多いことに気づきます。高齢化社会に突入しているからでしょう。新聞を読んでいましても、その下面の広告や週刊誌の見出しを見ても、終活(就活でない)に関する記事が圧倒的に多く見られます。これらはわたしたち人間が自分の最期をどのように迎えるかに関心があるからです。
イエスもまた、ご自身の死について話しておられたわけですが、しかし必ずしも死だけについて話しておられたわけではありません。現在使用している新共同訳聖書の前の口語訳聖書では、ここに「最後」という字を用いています。それは十字架の死だけでなく、その後の死からの復活、さらには天に上げられる昇天も含んだ、そうしたエルサエルにおける一連の出来事、その最後の完成という意味を含んでいるということです。
ペトロが見たこの栄光ある光景、すなわちイエスがモーセとエリヤと共にいる光景が終わり、やがてこの雲に包まれた栄光は過ぎ去りました。そして気がつくと、そこにはイエスだけがおられました。他の2人、モーセとエリヤはいなくなっていたのです。今ここにいるのは弟子たちとイエスという元の場面でした。彼らが立っているのは、山の中、それは石のごろごろとしている現実の世界です。けれどもここにイエスだけはおられました。あの栄光の場所からイエスはモーセとエリヤと一緒に消えてしまうのではなく、この厳しい現実の世界、これからも歩み続けていかなくてはならない困難を伴う地上の生活の中に、イエスだけは残って、弟子たちの傍らに立っておられた。「そこにはイエスだけがおられた」のです。
この世界は今も戦争、予期せぬ災害、様々な困難に満ちています。その中でわたしたちは悩み苦しんでいます。生活の苦しさ、健康の問題、家族をはじめとした人間関係、それらは今の世界が栄光とか勝利とはかけ離れた石のごろごろとした場所であることを示しています。けれどもこうした所にイエスだけはとどまっていてくださるのです。モーセとエリヤと語り合う勝利のイエス、栄光のイエスは、このように地上で苦悩する人々と共に歩む方でもあります。わたしたちはいかなる試練の中にあっても、十字架を担われる主イエスの恵みを見出し、わたしたちの罪と重荷を背負ってくださる十字架のイエスを忘れてはなりません。栄光ある天と苦悩に満ちた地、そのように栄光と苦難はイエスにおいて一つなのです。(高橋牧師記)

