鈍くなった心

    「あなたたちは聞くには聞くが、決して理解せず、見るには見るが、決して認めない。この民の心は鈍り、耳は遠くなり、目は閉じてしまった」。  マタイによる福音書13.10-17

 「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐに芽を出した。しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。ほかの種は茨の間に落ち、茨が伸びてそれをふさいでしまった。ところが、ほかの種は、良い土地に落ち、実を結んで、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなった」。

 これは種蒔きの話です。イエスはここで何を語ろうとされたのでしょうか。その内容が18節以降に出ています。「だれでも御国の言葉を聞いて悟らなければ、悪い者が来て、心の中に蒔かれたものを奪い取る。道端に蒔かれたものとは、こういう人である」。右の耳から入って、すぐに左の耳から出て行ってしまうといった感じでしょうか。次の石だらけの土に蒔かれた種とは、「御言葉を聞いて、すぐ喜んで受け入れるが、自分には根がないので、しばらくは続いても、御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう人である」。要するに根気がなく長続きしないのです。3番目の茨の中の種とは、「御言葉を聞くが、世の思い煩いや富の誘惑が御言葉を覆いふさいで、実らない人」です。これもわたしたちの世界にはよく見られます。言い換えれば気が多い、あれもこれもと手を出して結局は信仰の成長が後退してしまうケースです。最後の良い土地は説明がいらないでしょう。御言葉を聞いて悟る人のことです。

 人間の心はかたくなであり、その鈍い心が聖書の言葉を閉ざしています。預言者イザヤが語る通りです。「あなたたちは聞くには聞くが、決して理解せず、見るには見るが、決して認めない。この民の心は鈍り、耳は遠くなり、目は閉じてしまった。こうして、彼らは目で見ることなく、耳で聞くことなく、心で理解せず、悔い改めない」。

 イエスはそうした人々のかたくなな心や鈍い心を嘆きながらも、他方では身近に仕えている弟子たちを祝福されました。「しかし、あなたがたの目は見ているから幸いだ。あなたがたの耳は聞いているから幸いだ。はっきり言っておく。多くの預言者や正しい人たちは、あなたがたが見ているものを見たかったが、見ることができず、あなたがたが聞いているものを聞きたかったが、聞けなかったのである」。弟子たちに向かって言われた、あなたがたが見ているもの、あなたがたが聞いているものとは何でしょうか。それは今、目の前に救い主として立っておられるイエスその人のことであり、その方によって語られている数々の福音の言葉です。それを旧約の人々は待ち望み、今主イエスにおいて実現したのでした。

 これは弟子たちがすぐれていたからというのではなく、イエスの招きによるものでした。たとえ今は鈍い心の者であっても、イエスの招きにあずかれば同じように見え、聞こえるようになるというものです。そのための働きが弟子たちに、そして今のわたしたちにも、御言葉の証しが託されています。以前は見えなかったが今は見えるようになり、それまで見えていたものがかすんで見えなくなっていく。以前は聞こえなかったが今は聞こえるようになり、それまで聞こえていたものが徐々に遠くなり、やがて聞こえなくなるという福音の世界への招きです。(高橋牧師記)