鍵のかかった部屋
「イエスはトマスに言われた。『わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである』」。 ヨハネ福音書20.19-31

トマスは言いました。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」。そこから彼は「疑い深いトマス」と呼ばれるようになり、讃美歌でもそう歌われています。ここではその疑い深さがほめられているわけではありませんが、他方では自分の目でしっかりと確かめたうえで信じようとする態度は大切でもあります。というのは昨今他人の言っていることをそのまま鵜呑みにしてしまったり、人々のうわさに簡単に振り回されやすい傾向が見られるからです。詐欺、SNSなどで拡散するフェイクニュース。現代には二つの両極端な態度が見られます。不信と過信(狂信)です。不信とは誰も、何も信じられない、ひどいときには自分さえも信じられないといった態度で、誰にも自分を信頼して明け渡せない不信の心です。もう一方の過信とは自分を見失ってしまうほど誰かに(また何かに)のめり込んでしまう状態です。詐欺まがいのカルト的宗教もそうした過信の一つと言えます。この不信と過信、実は同じ根から生え出た二つの両極端ではないかと思います。その根とは恐れです。恐れや不安が一方では不信とかたくなさを生み出し、他方では何かに極端にすがりつこうとする態度へ導くのです。
そんなトマスの前に復活のイエスが現れました。そして言われます。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい」。
わたしは1972年に、アフガニスタンに旅しました。もう今は入国できる状況にありません。首都カブールから北に80㎞ほどの場所にバーミヤン渓谷があり、そこに山をくり抜いた仏像がありました。印象的だったのは、顔だけ見事に削り落とされていたことでした。それはイスラム勢力が侵攻してきた11世紀以降だと言われています。それがさらに現在のタリバーンによって肩から上の方が破壊されてしまったのです。今から20年ほど前のことです。わたしが訪れたときはまだ全身が残っていましたし、頭の上にはギリシア人の顔をした仏教の壁画を見ることができました。ここはガンダーラ地方と言われ、西のヘレニズムと融合したシルクロードの一角だったからです。あの巨大な仏像を作ったのも信仰、また偶像礼拝を嫌い顔だけ鋭い刃物で削り落とすのもまた信仰の一部なのかもしれません。そこにすごいエネルギー、古代の信仰の力を感じたものです。自らの信仰を見えるものにあらわしたい、またその反対に見えるものを拒否する、そんな戦いの一面です。
あれだけ見ること、触ることに固執していたトマス、結局は何もせず、ただ「わたしの主、わたしの神よ」と答えるだけでした。これはトマスの信仰告白です。そこで最後にイエスが言われました。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」。わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去るが、見えないものは永遠に存続するからです。わたしたちは見えるものによるのでなく、信仰によって歩んでいるのです。(高橋牧師記)

