風
「一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた」。
使徒言行録2.1-11

ペンテコステの日、弟子たちの上に激しい風が吹きました。炎のような舌も現れました。これらは聖霊が何であるかを言い表しています。風については、イエスはニコデモに言われました。「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くのかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである」(ヨハネ3.8)。
わたしは俳句の歳時記が好きで、毎日開いています。その中に風という言葉の季語がいくつかあり、今の季節のものとしては、「風薫る」とか「風光る」があります。風は目に見えませんが、不思議にわたしたちを取り囲んでいます。聖霊もそれと同じように、目には見えなくとも、わたしたちの心身に大きな影響を与えています。
またもう一つ、炎のような舌が現れました。それは力を表しています。旧約の預言者エリヤが宿敵バアルの預言者に言いました。「火をもって答える神こそ神であるはずだ」。果たしてそのとおり、「主の火が降って、焼き尽くす献げ物と薪、石、塵を焼き、溝にあった水をもなめ尽くした」と聖書は記しています(列王記上18.24,38)。
この祭りには世界中から人々が集まっていました。彼らはイエスの弟子たちが外に向かって大胆に語り始めたことだけでなく、その語る言葉にも驚きました。「だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった」とあります。
この驚きはいったい何を意味しているのでしょうか。それは弟子たちがいきなり外国語を話し出したということではなく、彼らの信仰から出た言葉に驚いたということでしょう。彼らの話す言葉が聖霊に満たされていたからです。多くに人々には、まるで自分の国の言葉を聞いているように、心深く、鮮明に、しかも感銘をもって聞くことができたのでした。聖霊による新しい言葉だったからです。
この対極にあるのが、旧約にある「バベルの塔」の物語です(創世記11章)。人々は神のように高くなろうと、天まで届く搭のある町を建てようとしました。そのようにして有名になろうとした矢先、互いの言葉が通じなくなったという話です。人間が神なしですまそうとする傲慢の結果は、言葉の乱れだったのです。その言葉の乱れ、言葉の軽さ、それは現代にも当てはまるのではないでしょうか。インターネットなどを通して得られる情報の多さは、まさに洪水のようであり、真偽を見極めるのが大変となっています。人間の傲慢と自己主張に忙しい言葉は、人と人を結びつけるより、また癒しを与えるより、対立させる方向へと進みがちです。これこそが現代の「バベルの塔」でもあり、そこで失われた言葉が今ペンテコステにおいて回復したのでした。
それが聖霊に押し出されたペンテコステの教会の姿です。今の季節の風は心地よいものです。それがなぜ心地よいのか、説明したり、説明を求めたりする人はいません。それと同じように聖霊の風はこの朝わたしたちの心をも捉え、わたしたちの内にあって、またわたしたちと共にあって、力を与え外へ押し出していくのです。不思議な風である聖霊は、わたしたちに生きる喜びや生きる勇気を与えてくれるのです。(高橋牧師記)

