食卓の下のパン屑

    「イエスはお答えになった。「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」そのとき、娘の病気はいやされた。  マタイによる福音書15.21-28

 イエスがティルスとシドンという異邦人の地に行かれたときのことです。病める娘を抱えた1人の地元の女がイエスに助けを求めてきました。「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています」。それに対しイエスは何もお答えになりませんでした。それでも彼女は引き下がることなく訴え続けました。そこでイエスは言われます。「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」。

 この言葉から感じるイエスの突き放すような態度、それはあえてこの女を試そうとされたのかもしれません。あるいはユダヤから異邦人へという福音の順序が念頭にあったとも考えられますし、また単に疲れていたという人間的な面が、こうした言葉になったと言えなくもありません。それでも娘を思う母親の熱意と真剣な祈りは、そこで途絶えることはありませんでした。「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです」。

  聖書に出てくる犬はほとんどがよいイメージではありません。調べてみますと、羊の群れの世話は直接羊飼いがするのであって、犬を用いる習慣はこの地にはありませんでした。そのため今日の、たとえば「フランダースの犬」とか「忠犬ハチ公」のように、人間と犬が仲良く暮らすという関係は生れなかったようです。かの地では山犬や野犬のように飼いならされていない犬がほとんどで、それが聖書で比喩として用いられるイメージと結びついたのでしょう。たとえばダビデとゴリアテが一騎打ちをする場面があります。ゴリアテは軍服で現れたのですが、ダビデは普段着で出てきました。そのときゴリアテは「わたしは犬か」と言っています。この場合の犬とは、自分が馬鹿にされたという思いで使った言葉でしょう(1サムエル17.43)。パウロも律法主義者を指して「あの犬どもに注意しなさい」と言っています(フィリピ3.2)。今日のワンちゃんをペット、それ以上のコンパニオンとしている人々が怒りそうな言葉です。

 彼女の叫び続けるような訴え、ひたむきな態度、それがイエスを動かしました。「婦人よ、あなたの信仰は立派だ」。いったい信仰者でない異邦人の女のどこを指して「あなたの信仰」と呼んだのでしょうか。彼女は洗礼を受けていません。今日の「主の祈り」とか「使徒信条」を唱えることができたわけでもありません。そういう意味ではなく、信頼、またイエスにひたすら依り頼む熱意というような意味で信仰と呼んだのです。それを「立派な信仰」とイエスが認められたのでした。この「立派」、原語は「メガ」と言い、今でもよく耳にするメガトンとかメガバイトの、あのメガです。つまり大きいということです。女の信仰の内容が立派であったというようなことではなく、もっと単純に、純粋にひたすらイエスに依り頼もうとする、いやそれ以外に委ねる道がないという、そうしたひたむきさが実に大きいと言われたのではないでしょうか。「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる」(マタイ7.7)とイエスは山上の説教の中で語っておられます。求める者にはだれでも分け隔てなく、憐みといやしを与えてくださるのです。まさにその言葉が具体的にこの場所で実現したのでした。(高橋牧師記)