飲むべき杯
イエスはペトロに言われた。「剣をさやに納めなさい。父がお与えになった杯は、飲むべきではないか」。
ヨハネによる福音書18.1-14

ゲツセマネの園での出来事でした。イスカリオテのユダと共に、兵士たちがやって来ました。イエスを捕らえるためにです。そこでイエスは自ら進み出て、「だれを捜しているのか」と言われました。彼らが「ナザレのイエスだ」と答えると、イエスは「わたしである」と言われました。
「わたしである」という言葉、この後にも2回出てきます。実に不思議な言葉で、同時にヨハネ福音書のキーワードともなります。この「わたしである」とは、英語の“I am”にあたります。しかしこれでは正確な言葉にはなりません。通常なら“I am Takahashi”というように言わなければ通じないからです。ところがイエスは単に「わたしである」とだけ答えられたのでした。なぜこのような言い方をされたのでしょうか。
イエスが「わたしである」と言われたのは、単にあなたがたが捜している人物がここにいるという意味で、ご自分が名乗り出たということではありません。それだけではなく、それ以上に今あなたがたの前に立っているのは、世の終わりに実現する勝利者としてのイエス・キリスト、神の国の完成者としての主キリストがここにいるという意味を持っていたのです。そうした存在の重さがこの言葉に含まれていたのです。だからこそ、この言葉を聞いたとき、「彼らは後ずさりして、地に倒れた」のでした。イエスが彼らを押したから倒れたのではありません。これは神との出会いを前にした人間の典型的な姿で、たとえばパウロもダマスコ途上で復活イエスに出会ったときに、地に倒れたのと同じです。このようにほんの一瞬ですが、ゲツセマネの裏切りと罪が支配する場所で、神の勝利が示されたのでした。
それでもイエスは最終的にこの世の力に身を委ねられました。ペトロが剣で大祭司の手下を切りつけましたが、イエスはそれを押しとどめられたのはそれゆえです。こう言われました。「剣をさやに納めなさい。父がお与えになった杯は、飲むべきではないか」。
杯には祝福とか喜びの意味はありますが、反対に怒りという面もあります。今ここでイエスが飲むべき杯とは、「父よ、この杯をわたしから取りのけてください」と祈られた苦い杯です。具体的には十字架の死を受け入れるということではあり、人間の罪に対する神の怒り、裁きを彼らに代ってご自身が受けられるというものです。
それならばわたしたちにとって、杯はどのような意味があるのでしょうか。もちろんわたしたちはイエスが引き受けられたと同じ十字架を担うことはできません。それでもイエスはわたしたちに言われました。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(マルコ8.34)。ここで問題とされるのは、結局自分自身です。自分を捨てる。イエスに従うためには、自分を捨てなくてはならないのです。イエスと同じ十字架ではなくとも「自分の負うべき十字架」はあります。それがわたしたちなりの杯であり課題ではないでしょうか。だが、わたしたちの主イエス・キリストは「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい……わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである」と言ってくださることを覚えておきたいと思います(マタイ11.29-30)。(高橋牧師記)

